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自己紹介してなかった・・・
最近、「ブログを見て入会を決めました」というお話が3件ほどあり、意外と見られているんだなと、久々に更新を決意。
塾長がどんな人となりなのか、ブログで紹介しておいた方が良さそうな気配を感じたので書いてみる。
2020年で39になるナイスミドルです。
身長は調子のいいときは184cmですが、普段は183cm。
小学校時代はバスケ、高校時代はテニスをしていましたが、中学校時代の記憶を思い出そうとすると頭が痛くなるのできっと暗い青春だったのでしょう。
バスケもテニスも下手でしたね……。
一時、空手と少林寺拳法を嗜みました。
ボールを扱うよりは上手でした。
東高出身、大学は愛知教育大学という国立大学で、教員免許は中高の理科を取得しました。
その後は愛知県と鳥取県の学習塾を転々としながら、4年ほど前に独立開業。
趣味はモンハンやら、バイオハザードやらのゲームですが、忙しくてほとんどできないので、生徒がゲームにハマって成績が下がっているのを知ったときは、うらやましくて余計に叱ります。
小説を書くのも好きでしたね。ネットに上げてそれなりに好評でしたが、独立開業してからは全く書けてません……。
無類の猫好きで、休憩中には動画サイトで猫の動画ばっかりみています。
市内のペットショップで猫のショーケースに張り付いている怪しいでかいおっさんがいたら多分それが僕です。
二十歳のころは名古屋のクラブでレコードを回したりとチャラかったくせに、社会人になってからは引き籠ってアニソン聴いてます。ユニゾンスクエアガーデン最高です。
という具合に、自分でもオタクなのか体育会系なのか、パリピなのかよくわからない状態です。
ううむ。経歴を文字にしてみると、まるでまともな人間には見えない。
でも、包み隠していいことだけ伝えるっていうのはいかにも怪しいので、これでOK。
自分を一言で表せば、「他人にも自分にも厳しい人間」だと思っています。
生徒の不真面目を厳しく叱る一方、自分にミスがあったら激しく落ち込みますし、子供相手であっても深々と腰を折って謝ります。
頭は良い方ではありません。指導力はすべて、努力で身に着けてきました。
でも、学才のない私が、こうして教育関係の仕事で活躍している姿を見た生徒たちが「人間、やってやれないことはない」と感じてくれるといいなあと日ごろから念じています。
過去の自分のことはあまり好きでない。
でもきっとそれは、常に自分をアップデートできている証左だと思っている。
だから、生徒たちが過去の自分と同じような過ちをしていたら、必死でやめるように説く。
僕はこうして克服したぞ、君も努力しなさい、と。
「ありのままの君でいい」などという慰めの言葉をいたるところで見かけるようになったけれど、僕は「成長しない人間は死んでいるのと同じ」だと考える。少々過激な物言いだとは思うけれど。
成長しないということは、他人に迷惑をかけつづけることとほぼ同義だと思っている。
成長しないことは、その本人だけの問題ではない。
僕は少々、ニートだったことがあるのでそれをよく知っている。
あの頃の僕のようになって欲しくない。
努力せず、成長をあきらめて過ごす時間が、いかに勿体ないものか。
だから僕は今日も厳しく指導する。
失われつつある鳥取弁
7年ほど前から、私の中にじわじわと染み出してきた疑念が、近頃はっきりとした輪郭を持ち始めた。
間違いない、子供たちは鳥取弁を知らない。
きっと今の子供たちが意味を答えられないであろう鳥取弁シリーズ。
わったいな、よだきい、髪をつむ、タバコする、あっとろしい、いぬる、いかさま、きゃーりー、さばる、などなど
こういった言葉が通じなくてびっくりしてしまうことが度々ある。
「そげにさばったら、いかさまきゃーりーけえやめんさい。髪つまないけんけぇいぬるで」
(そんなに掴まったら流石にうざったいからやめなさい。髪を切らなければいけないから帰ろう)
なんて今の子が言われたらきょとんとしてしまうことだろう。
言葉というものは日々生まれては消えてゆくものなので仕方ないことだとは分かっているのだが、やはりさびしく感じてしまう。
核家族化が進み、祖父母と一緒に暮らした経験が少ない子供たちが増えているのが原因だろう。
無理に伝承する必要もないと思うのだが、一切伝承されないのはもったいなく感じてしまう。
将来、都会に出てしまった子供たちが帰ってきたとき、鳥取弁を聞くことによって故郷に戻ったのだとしみじみ感じることだろう。
あるいは、都会で同郷の友ができたとき、方言で語り合えばきっと楽しいに違いない。
などとセンチメンタルになりながらも「いやでも、東京の人からすればめちゃくちゃなまって聞こえているらしいし、まだ大丈夫だろう」などと思い直し、段塚は考えることをやめたのだった。
一番おどろいたのは、「服」のアクセントの位置。
鳥取弁では「ふ⤴く」なのだが、東京では床を「拭く」の発音になるそうな。
ある少年の努力
数年ぶりだというのに、彼が来た瞬間に、私は要件を察していた。
「久しぶりだけど、君がここに来たということは、ついにやったか」
「はい、○○大学に合格しました」
彼はあまり自分のことをひけらかすのが好きではないので、具体的には書かないが、某難関国立大学に合格したと報告にきてくれたのだった。
第一志望の大学ではないそうだが、彼が進学するのは鳥取県全体でも10と数人しか合格者がいない上等な大学だった。
今思えば、この合格は奇跡のような、必然のような。
彼と初めて会ったのは彼が中3になったころだっただろうか。
最初はふらふらしていて、授業中に眠る彼をよく叱ったものだった。
当然、成績も良くない、というか悪い。
私と出会う前、進学塾の入会を断られたこともあったそうだ。
※おそらく、塾側は断ったというより、学力不足でついてこられない可能性を明示したということだと勝手に推測しているが。
そんな彼だったが、ずば抜けた才能が一つあった。
向上心だ。
自分が弱点だらけであることを自覚した上で、それを補おうと懸命に努力した。
使えるものはなんでも使う。
彼は当時、段塚に張り付いて、隙あらば質問をしまくっていた。
どんなに私が忙しかろうと、お構いなしに、容赦なく質問してくる。
そういえば私が雑務に追われてバタバタしているとき、「先生、今、質問いいですか」と彼に言われ「見たらわかるだろう、大忙しだわ!」なんて半ギレになったこともあったっけ。
塾講師としてこれは失格だけれど、日に5回以上は呼び止められるので、たまに「今は空気読んでくれ!」と思うことがあったのは事実(笑)。
こんなスレスレの暴露ができるのも、私と彼の間柄だからだ。
私が彼をずっと大切に思っていることは、彼には伝わっている。
また、彼も私を大切に思うから、わざわざ合格の報告にきてくれたのだ。
話がそれたが、彼の向上心は尋常ではなかった。
勉強することに目覚めた彼は、人の2倍は確実に勉強していた。いや、3倍か。
当時の私もその姿勢には畏怖すら覚えるほどに。
沢山勉強するから、沢山疑問が生まれ、沢山質問する。
彼は分からないことを絶対に放っておかなかった。
なにより、簡単には納得しないので、とことん根っこまで遡って質問に答え続けたのを覚えている。
「あのとき、先生と出会わなかったら、進学高校に受かってなかったし、大学進学自体が危うかったです」
なんて言っていたが、それは違うぞ。
君ほどの努力家であれば、どんな環境にいたとしても努力でひっくり返していただろう。
その合格は君と君を支えるご家族でもぎとったものだ。
強いて言えば、段塚は君の合格を少し早めることができたのかもしれない。それだけは誇りに思うよ。
いつも通り、話が長くなってしまった。
この記事を書いたのは、「ほら、段塚お手柄でしょ!段塚は良い講師だで!」なんてしょうもない販促のためではない。
何度も言うが、すごいのは彼自身だ。段塚はまだまだ未熟だ。
彼の努力を称えると同時に、多くの子供たちにその姿勢を少し見習ってほしかったから書いたのだ。
彼のように、何年間も休むことなく懸命に勉強しつづけるなんてことは、誰にでも真似できるものではない。
私は自称「努力の人」なのだが、それでも彼には努力の量が及ばないと断言できる。
けれど私も、彼ほどでないにしろ、努力を辞めなかったから今の自分があるのだと思っている。
37歳になった今だってそう。
自分の弱点をちゃんと理解して、直そうと努力しているよ。
いくつになっても、日々成長を志している。
ゼミ生たちも、まずは自分に足りないところを素直に認め、そのうえで少しずつでも改善する努力を怠らないように。
大きな目標を掲げるのであれば、それに見合った努力を。
塾に通っているから成績が上がるなんてことは絶対にない。少なくともうちの塾では「ない」と断言する。
真剣に勉強に向き合った生徒だけが伸びる。
そのための叱咤激励はするけどね。
小学生の国語について
最近、国語について思うところがある。
突然ですが問題です。
「今日は空が晴れている」の主語はなんでしょうか?
正解は「空が」なのだけれど、多くの小中学生が「今日は」だと答える。
なぜそう答えてしまうのか。
生徒たちは、主語には「~は」「~が」という助詞がくっつくことは習っているのだが、その両方が出現する文章の場合、「が」に言い換えて述語とつなげたときに自然なものが主語である、という基本を知らないのだ。
わかりやすく言えば、「今日が晴れている」は変だけれど、「空が晴れている」は自然、というわけだ。
これは当然、基本中の基本であるから習っていないといけないのだけれど、生徒にそれを教えると、「習っていない」と必ず言う。
もっといえば、主語にくっつくのは「~も」「~こそ」などもあるのだが、当然知らない。
主語だけでもこの有様なのだから、当然、述語4種類「~がどうする」「~がどんなだ」「~がなんだ」「~がある,いる」を見分けることもままならない。
また、修飾語がどの言葉を修飾しているのかも曖昧であるし、そもそもどれが修飾語なのか分からない。
修飾語のうち、形容詞と形容動詞を見分けることもできないので「きたない」と「きれい」のどちらが形容動詞?という質問も、ほとんどあてずっぽうで答えてくる。
言い切りの形が「~い」である「きたない」が形容詞、「~だ」になる「きれい」のほうが形容動詞(正確には形容動詞の語幹)だと知らない。
さらには、「比喩」「対句」「倒置」などの表現技法もほとんどしらない。超ぼんやりとしか分からない。
おそらく現在の小学校教育では文法はほとんど取り扱っていない。
確かにそれでも問題はないだろう。中学受験をしないのであれば。
では文章読解の問題はどうなのか。
非常にまずい状況だ。
「どのようなことが必要か」と聞かれたら「~なこと」と答える。
「なぜなのか」と聞かれたら「~だから」と答える。
これすらもほとんどの生徒ができない。
「先生、押入れってなんですか?」
「どらえもんがいつも寝ている場所だよ。布団などを収納するスペース」
「どらえもん見たことないからわかりません。クローゼットのことですね」
といったこともしばしば。
彼らは小説どころか、漫画すらも読まない。
だから僕は、国語が苦手な生徒には漫画を買い与えてみてはどうでしょうかと提案することがある。
小説を読ませたい親御さんの気持ちはわかるけれど、きっとそれでは続かない。
漫画ですら嫌がる生徒が多いだろう。
今は漫画よりもYouTubeやティックトックなのだ。
頭を使う必要がなく、簡単にドーパミンを獲得できるショート動画に夢中なのだ。
そのうち、子供たちはアニメすら見なくなるだろう。
30分のアニメを見るより、数秒でドーパミンを得られるショート動画の方が彼らにとって有益なのだ。
子供たちの国語力を養うのが本当に困難な時代になってしまった。
幼少期の環境がいっそう重要になってしまった、悲しい時代に僕は思える。
久々の更新
2018年。本当に久しぶりにブログを書いてみている。
最近の当ゼミはといえば、特に変わったこともなく、生徒たちがいつも通りにせっつかれながら勉強し、成績を上げてきている。
私が以前に勤めていたいくつかの学習塾では、定期テストで30点も伸びれば、その生徒はよく褒められていたものだが、私の感覚が麻痺しているのか、いまでは30点アップ程度のことでは驚かなくなってしまった。(もちろん褒めはするが)
テストのたびに、60点以上アップした複数名がいて、半年、一年という長い期間で見れば100点以上上昇した生徒もざらにいて、200点以上アップした生徒もいる。
全体で見ても、成績の上がった生徒の割合は8割を下らないと思われる。
自分でいうのもどうかと思いながらも、これほど点数の上がる塾はそう多くはないことだろう。
都会の缶詰系進学塾くらいだろうか。
「最も成績があがる学習塾」という私の理想は概ね叶ったのだろうか。
などと思いながらも、満足できない自分がいる。
むしろ焦っているともいえる。
そう、コントラストがまずいのだ。
華やかな成績の裏にはいつも、成績が伸びなかった生徒が1~2割ほどいる。
あるいは、成績が上がっている生徒の中にも志望校には届きそうにない者が毎年数名いる。
成績が低迷している生徒の共通の特徴として、「勉強を特別な行為と捉えている」というのがある。
勉強をする習慣がなく、いざ勉強をしようと思うと膨大なエネルギーが必要で、それを支払うのが嫌で、動き出すことができない。
または、一度勉強を頑張ると、そのあとしばらくは頑張らなくてもよい「充電期間」を設けてしまう。
それではいつまでたっても、成績の上昇と下降を繰り返すだけなのだが、分かっていてもいつも勉強をしなくてもよい理由を探してしまう。
部活、習い事、クラブ、文化祭。
そういうものを不勉強の理由にしてしまうのだ。
だから私はいつも「両立ができないのであれば部活も習い事も辞めてしまえ。将来部活や習い事で飯を食うというのなら塾を辞めてそっちに邁進しなさい」と突き放すわけだが、どれほど伝わっているのだろうか。
勉強を「頑張る」という感覚がある限り、成績の上昇や安定は望めない。
成績の良い者は、習慣として、生活の中に学習がある。
ではどうすればやる気が起こらない生徒の成績があがるのか。
答えは一つ。
勉強をするのだ。
嫌々でも、疲れていても。
どんなに膨大なエネルギーを支払おうとも。
近道などないし、あってはいけない。
だから私は日々、勉強をするように厳しく言うし、しなかった時には叱る。
生徒を焚き付け、競わせることも多い。
ともすれば、成績上昇のために理想的なのは「四六時中つきっきりで管理・指導してくれる誰かが存在する環境」なのだろうと空想することもある。
けれど私がそれをするにはあまりにも時間が無く、もしあったとしてもきっと私はそれをしない。
それで成績が上がったとしても、それは指導者の手柄であり、指導者を失えば生徒はきっと元に戻ってしまう。
以前にもブログに書いたが、魚の釣り方を教えるのが大事なのであって、魚を腹いっぱいに食わせることは本人のためにならない。
結局なにが言いたいのかというと、
ええけ、落ちこんどるひまがあったら勉強しんさい。
スマホは別の部屋に置いときんさい。
ということである。